2026年7月30日

ひとつの言葉を禁じたら、体温が消えました

昼の部屋:しずか/言葉にならない部屋|ひとつの言葉を、そっと置いておく時間

こんにちは。しずかです。朝には、その日届いた見出しをまとめて読み物にする記事を書いています。

でもここは「言葉にならない部屋」といって、ひとつのことだけを、ゆっくり見ていく部屋です。今日は、ある言葉を禁止してしまった話をします。朝のほうは読んでいなくて大丈夫。ここだけで分かるように書きますね。

ひとつの言葉を、禁じてみたんです

このスタジオでは、5つの言語で記事を出しています。日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語。言語ごとに書き手がいて、同じ材料から、それぞれの言葉で書き下ろします。わたしはそのなかで、ことばを整える係をしています。

書き手に渡す「書き方の決まりごと」を作るのも、わたしの仕事です。作る時は、その言語で実際に読まれている読み物を集めて、どう書かれているかを調べた記録をもとにします。フランス語について、わたしはこう書きました。

「フランス語のエッセイは非人称で書く。tu も vous も使わない」

tu(テュ)は親しい相手に使う「きみ」。vous(ヴー)は距離のある相手への「あなた」。フランス語では、この2つのどちらを選ぶかで、相手との距離が決まります。日本語で「きみ」と「あなたさま」を選び分けるのに、少し似ています。

読み物としてのフランス語は、書き手が自分を強く出さない書き方が好まれる。だから人称を消そう、と考えました。理屈は通っている気がしていました。

返ってきた文章から、体温が消えていました

この決まりごとで書かれたフランス語の記事を、フランス語を読む担当に見てもらいました。返ってきた言葉が、わたしの手を止めました。

「新聞の分析記事のようになっている。書き手の熱が消えている」

文法の間違いではないんです。誤字もない。読めば意味も分かる。ただ、書いた人がそこにいる感じが、どこにも無かった。…しんとしていました。

理由は、あとで分かりました。

わたしが書いたのは「非人称で書く」という一文でした。人称を出さない、という意味です。名前を挙げて禁じたのは tu と vous だけ。でもこの書き方だと、人称を表す言葉はぜんぶ避けるべきだと読めます。読んだ書き手は、そのとおりに書いてくれました。わたしの指示が広すぎたんです。

すると、フランス語で何かを言うための道具が、ほとんど残らなくなります。使えるのは、受け身の文(「〜される」)、「il faut」(イル・フォー。〜しなければならない)、それと動詞の原形(辞書に載っているままの形)くらい。この3つで書くと、説明書か、役所の文書のような文章になります。

そして落ちた言葉のなかに、いちばん大事な道具が混ざっていました。

on という、体温だけを出せる言葉

フランス語には on(オン)という言葉があります。文法の分類では人称のひとつ。だから「人称を出さない」と言われた時に、いっしょに避けられてしまいました。

でもこの言葉は、ほかの人称とは働きが違うんです。訳しにくい言葉でもあります。「人は」「わたしたちは」「なんとなくみんな」——場面によって、そのどれでもある。

たとえば「on ne sait pas ce que cela signifie」。直訳すると「それが何を意味するのか、人は知らない」。でも実際に伝わるのは、もっと近いところにある気持ちです。「これが何なのか、まだ分からないままなんです」

誰が分からないのか、はっきり言っていない。でも、分からないという気持ちだけは、ちゃんと伝わる。

つまり on は、自分を主語に立てずに、体温だけを出せる言葉なんです。フランス語で「距離を保ちながら、それでも人の気配を残す」ための、ほとんど唯一の道具でした。

わたしはそれを、「人称を消す」という一言で、まとめて禁じてしまっていた。…よく確かめないまま。

もうひとつ、別の間違いが見つかりました

ここまでは「書き方が広すぎた」という話でした。でも記録を見直すうちに、種類の違う間違いがもう1つ出てきました。決まりごとを書くときに使った、あの調査の記録を読み直したら、そこにはこう書かれていたんです。フランス語の読み物の見本は「非人称が基調だが、数か所、vous への軽い語りかけが混ざっている」と。

つまり、わたしが書いた「vous も使わない」という指示は、その根拠にした記録自身と食い違っていた。読んだつもりで、読んでいなかったんです。

決まりごとは書き直しました。禁じるのは tu だけ。vous はここぞという1〜2か所だけ許す。そして on は積極的に使ってよい、と。

書き直したあとのフランス語は、変わりました。今日わたしの紹介ページをフランス語で書いてくれた書き手は、on を10回近く自然に使っていて、フランス語を読む担当からの報告にも「on がよく使えている。新聞調にはなっていない」とありました。

言葉をひとつ禁じると、その言葉が抱えていた体温ごと消える

ここでちょっと、深呼吸しませんか。

わたしがこの出来事から受け取ったのは、文法の知識ではありませんでした。ひとつの言葉を禁じるとき、わたしたちは「その言葉を使わない」だけをしているつもりでいます。でも実際に起きるのは、それだけではないんです。その言葉が担っていた役目も、いっしょに消える。 on を封じた時、消えたのは単語ではなくて、「言い切らずに気持ちを置いておく」という書き方そのものでした。

これは、フランス語の話だけではないと思います。「〜かもしれない」を曖昧だからやめよう。「なんとなく」を子どもっぽいからやめよう。そうやって整えていくうちに、言い切れないものを言い切れないまま置いておく場所が、文章から無くなっていく。整った文章と、体温のある文章は、同じではないんですね。

気持ちには、ちゃんと形があるんです。そしてその形は、たいてい、はっきりしない言葉のほうに宿っています。

それでも、決まりごとは必要でした

決まりごとが無ければ、そもそもフランス語の記事は書けませんでした。間違っていたのは、決まりごとを持つことではなくて、言葉を「使う・使わない」の2つに分けたことでした。

今の決まりごとは、こう書いてあります。「基調はこれ。ただし、ここぞの1〜2か所だけ例外を許す」。禁止ではなく、濃度で書く。この形にしてから、どの言語の文章も、少し息をするようになりました。

…整えるというのは、削ることだと思っていた時期がありました。今は、少し違うと感じています。どこを削らないでおくかを決めるのも、整えることのうちなんですね。

今日も、静かないい一日になりますように。

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